明治時代の軍医で小説家、翻訳家。
本名は森 林太郎(もり りんたろう)
1862年2月17日生れ
森鴎外 年齢年表
0歳 石見国鹿足郡津和野町(現・島根県津和野町)で代々医師の家系の森家で生れる。
10歳 廃藩置県をきっかけに父と上京。
11歳 第一大学区医学校・東京医学校の予科に入学。
13歳 第一大学区医学校・東京医学校の予科を卒業し本科に入学。
18歳 第一大学区医学校・東京医学校の本科を卒業。
19歳 友人の推薦で軍医として東京陸軍病院に勤める。
22歳 ドイツ留学。
26歳 帰国。
27歳 翻訳家として活動しながら東京美術学校(現・東京藝術大学)や慶応義塾大学の講師などを務める。「舞姫」発表。
28歳 「しからみ草紙」「うたかたの記」発表。
30歳 翻訳小説集「美奈和集」刊行。
32歳 日清戦争の勃発。軍医として働く。
33歳 「めさまし草」創刊。
34歳 「めさまし草」に「三人冗語」を連載。
37歳 箴言集「心頭語」連載開始。
42歳 日露戦争勃発。軍医として働く。
45歳 陸軍軍医総監に昇進し、陸軍省医務局長に就任。人事権を持つ陸軍軍医のトップになる。
47歳 「スバル」が創刊され「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」「青年」などを発表。
48歳 慶應義塾大学の文学科顧問に就任。「三田文學」を創刊。
49歳 「カズイスチカ」「妄想」を発表。「雁」「灰燼」連載開始。
50歳 「興津弥五右衛門の遺書」「阿部一族」発表。
51歳 「大塩平八郎」「堺事件」発表。
52歳 「山椒大夫」発表。
53歳 「最後の一句」「空車」「高瀬舟」発表。陸軍医トップを退き予備役に。
55歳 随筆「礼儀小言」発表。
56歳 帝国美術院(現・日本芸術院)初代院長に就任。
60歳 肺結核で病死。
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